「おい、起きろよ」
「う、うん…」
アリオスに腕を支えられながら立ち上がる。
「あのね、アリオス。今日はちゃんと歩いて帰りたい」
ようやく終わったのだから。
「ん? そうか」
アリオスは頷き、そんじゃ、帰ろう、と促した。
月が綺麗だった。
石畳が白く照らされ、輝いている。
家までの、僅かな距離。でも、この距離さえもアリオスの力に
頼っていたのだと、改めて思う。
林を抜けて、湖に出る。湖面に夜空が写しだされて、揺れてい
る。
「ね、アリオス。ありがとう」
「なにがだ?」
「ずっと、支えてくれて」
「俺は別に何もしてねぇぜ」
クッとアリオスが小さく笑う。彼は本当にそう思っているのだ。
「メシはちゃんと食ったのか?」
「うん」
「それじゃ、後は風呂に入るだけだな」
「う…うん……」
突然、アンジェリークは思い至った。
すぐ側に居たのに、ろくに触れ合うことも出来ずにいたこと。
それがどういう意味なのか、アンジェリークにも分かってきてい
る。明日を休みにすると言った、レイチェルの意図も、今ごろに
なってようやく分かって、頬を染める。
でも…でも…。
そっと、隣の人を振り仰ぐ。
空にある月の光のような、銀の髪。夜の闇にも輝く金と緑の美
しい瞳。
恥ずかしいけど、でも、確かにある、アリオスと触れ合いたい
という想い。
だから――。
「あの、ね…アリオス」
「なんだ?」
「……今日はね、一人でお風呂入るわ」
これが、アンジェリークの誘い文句だった――。
「ほら、先に入れよ」
家に戻った途端に、アリオスが言う。
「いいの?」
「ゆっくり浸かりたいだろ?」
ニッと笑ったアリオスの口調は、いつもと変らないように見え
て。
でも、人よりもずっと勘の鋭い彼のことだから、きっとアン
ジェリークの言葉の意味を分かっている。
「うん、ありがとう」
顔を赤らめながらも、パタパタっと階段を駆け上がった。
せっかくだから、と、真新しい着替えを用意して、浴室へ。
まるでタイミングを計ったかのように、バスタブは湯気を立て
ている。少しぬるめの温度。
――せっかくだもんね…。
お湯に浸かる前に、アンジェリークは思いついた。
甘すぎるきつい香りは好まないが、野花や木々のような爽やか
な香りはアリオスは好きだ。だから、大きなバスタブに二滴ほど。
アロマオイルをポタッと垂らす。ふわっとしたいい香り。
その心遣いは上出来だが、アンジェリークはぼんやりとして間
違えた。
爽やかな森林の香りのボトルと、安眠を誘うラベンダーのボト
ルを。
ガクッ。
自分の身体が大きく揺れた、その衝撃で目が覚める。
――うわっ。寝ちゃってた!?
今、アリオスはアンジェリークと入れ違いで、入浴している。
無事に仕事が終わった安堵感。溜まった疲労。温かな入浴。
(そしてラベンダー(笑))
いかにも眠りに誘うこの条件下、健気に必死に睡魔と闘う。
――う〜〜、ダメダメ。ちゃんとアリオスを待つんだから。
ペシペシッと頬を叩く。
もはやアンジェリークの目下の目的は、アリオスが浴室から出
てくるのを待つこと、それのみ。その後の事など、頭からすっぽ
り抜け落ちていて、来るモロモロに恥ずかしがる余裕さえない。
――ベットの上に座ってるから眠くなるんだわ。
立っていれば寝ちゃわないだろう…と考えて、ストンと床に足
を降ろす。
そこで目に付いた。ソファーの上に置かれたアリオスの上着。
――あら、アリオスったら、こんなところに置きっぱなし…。
すいっとそれを手に取った途端、
――あ…。
鼻孔をくすぐるアリオスの匂い。
きゅんと胸が甘く締めつけられる。
アンジェリークは、ぎゅっと上着を抱きしめ顔を埋める。うふ
ふっとそれは幸せな笑みを浮かべた。
――あいつ…、今ごろ寝ちまってんじゃねぇのか?
入浴をしながら、アリオスは思う。
もちろんレイチェルの好意もアンジェリークの意図も悟ったが、
それはそれで嬉しいが、果たしてアンジェリークが今、起きてい
るかどうかは大いに疑問だ。
本当に、この一月は傍で見ているほうが辛かった。
もちろん、隣で眠るアンジェリークを抱きたい気持ちもあった
けど、それよりもこの僅かな眠りを守りたい気持ちの方が強かっ
た。一緒の入浴も、湯船に浸かった途端にうたた寝を始めるアン
ジェリークを、ずり落ちないように抱きかかえつつ、妖しい気分
になるより先に、その身体がやせ過ぎていないかと確かめていた。
さっき、執務室で寝転がっている二人を見た時は、とうとう倒
れたか、と内心焦った。だから、終わったのだと言われたときは
心底ほっとしたのだ。
レイチェルの好意はありがたく受けるとして、明日休みなら今
晩はゆっくりと眠らせてやってもいいか、とも思う。だから、自
分を待つ間に寝入ってしまっていたら、それはそれで構わない。
殊更急ぐことなく、アリオスは身体を洗い流す。
明日の朝陽の中で、白い肌が染まる様を見るのも、悪くない、
などと考えて――。
――………お前としたら、待っててくれたんだよなぁ…。
浴室から出てきたアリオスが見たもの。
アンジェリークはベットの上で寝てはいなかった。
床に落ちていた。
そうとしか言い様がないような、髪を床に広げて横向きに、軽
く背を丸めて眠っていた。
覗き込むと、その手には自分の上着が抱きしめられている。
――………。
クッと忍び笑いが込み上げる。
どういう経緯でこうなったのか、もう目に見えるようで。
「お前さ、どうせなら本体に抱きつけよ」
そう言いながら、そっとアンジェリークを抱き上げ、握りしめ
た上着から手を放させると、まるで応えるかのようにしがみつい
てくる柔らかい身体。
起きたのかと覗き込むが、もはや深い眠りの中。むしろ、もっ
と安心しきって軽く寝息までたてはじめて。
――…お前なぁ……。
こういうパターン、もう、いやっというほど遭遇してきた。
無防備に眠るアンジェリークに、いっそ覆いかぶさりたい衝動
を必死で抑えていた旅の間。ストンと寝入ったアンジェリークに、
伸ばしたくても伸ばせないこの手に焦れた青空の季節。
抱え直して立ち上がると、ふわっと甘い香りが立ち上る。
少し光沢のある、薄紫のミニスリップ。薄桃色に上気した胸元
と、布越しにもはっきり分かる先の頂き。裾のスリットから覗く
白い太股と僅かに覗く下着のレース。
「それだけ誘っといて躱すなんざ、いい度胸じゃねぇか。あ?
アンジェ」
クツクツと咽の奥のから漏れる笑いを抑え、灯を消すと、片手
でベットの上掛けをはぐって、愛しい少女を横たえる。自分もそ
の隣に身体を滑らせ、上掛けを丁寧に小さい肩へとかけてやる。
それから、月明かりの中の、深く眠るアンジェリークの寝顔を
じっくりと眺める。
そっと、その唇に触れるだけのキスを落し、小さな身体を抱き
寄せて、そうしてアリオスも目を閉じた。
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