アンジェリークは書類にサインを書込む。
「………終わった…の?」
アンジェリークの声はとても小さい。応えるレイチェルも
「…うん……そう…みたい」
震えている。
信じれなくて、机の上を見渡すが、他の書類は見当たらない。
どちらからともなく手を差し伸べて、弱々しく握手する。
「終わったんだ〜〜〜」
ずるずるっと、レイチェルが床に座り込む。誘われるように、
アンジェリークも、へなへな〜〜っと崩れ、椅子から降りて、レ
イチェルの隣にへたり込んだ。
同時にチリリンと鈴の音。日付の変わった音だった。
それは発展というよりも、膨張、爆発、いっそ暴走と表現した
くなるような成長だった。
生まれる惑星に溢れる生命。
刻々と変る状況に振り回され、忙殺されたこの一ヶ月。まさし
く聖地は修羅場と化した。
アンジェリークもレイチェルも、休日どころか、朝早くから、
夜遅くまで、それこそ日付が変る前に仕事が終わったことなど無
かった。
「でもさ〜、今から思うと、乗りきれたのはアリオスのおかげだ
ね〜〜」
と、レイチェルが感慨深げに呟く。
「…うん。私もそう思う……」
あまりの厖大な仕事量に、家に戻るのももどかしく、宮殿に泊
まり込みたいと言ったアンジェリークに、アリオスは珍しくきつ
い言葉で「ダメだ」と言った。
「送り迎えなら俺がしてやる。だから寝るのはここで寝ろ」
そうしてアリオスは、朝と夜と、アンジェリークとレイチェル
の送り迎えをしてくれた。
彼の転移の力で――。
聖地内の僅かな距離の移動でさえ、時間を惜しむほど、彼の力
に頼るほど、それほど状況が厳しかった。
朦朧とした意識で家に戻ると、後は倒れ込むようにベットに
突っ伏し、そのまま短い睡眠を貪る。すぐ隣に居るのに、ろくに
話しさえ出来なかった。なのに彼の力を頼るだけで、あまりに申
し訳なく
――いっそ、また旅に出ないのかしら?
と思ってしまったくらいだった。
アリオスは、ここでの生活が落ち着いた頃から、時々、ふいっ
と旅に出るようになった。
「…旅に出たいんだ」
そう言い出したアリオスに、アンジェリークは思わず笑みが零
れた。
旅。それがアリオスなんだと思ったのだ。
『ただの旅人だ』
最初に彼が言ったように。
もう、戻ってくれるかと心配なんかしていない。
「うん…。また話しを聞かせてね」
そう言って、彼の腕の中で微笑んだ――。
ろくに話す暇もなく、ただ送り迎えをしてもらうだけ。あまり
に申し訳なくて、そう思ったこともあったが、今となればアリオ
スはこの状況を読んでいたのかもしれない。
まがりなりにもアンジェリークもレイチェルも、この一ヶ月を
乗り越えられたのは、とにかくベットで眠っていたこと。もしも
宮殿に泊まり込んでしまっていたら、二人とも身体がもたなかっ
ただろう。それほど過酷な一ヶ月だったのだ。
――アルカディアでも、結局そうだったな…。
窓の外、浮かび上がる月を見るともなく眺めて心に思う。
あの厳しい状況の中、一歩距離を置いたアリオスの存在が、ど
れほど心に潤いをもたらせたか、今になって心にしみる。
――ううん…あの旅の時も、そうだった。
何度、彼に助けられたか。何度、彼に慰められたか。彼のおか
げで前に進めた。――彼自身を倒す旅を――。
「お風呂だって一緒に入ってくれてたんでしょう?」
少し湿っぽくなったアンジェリークに、そうとは知らずにレイ
チェルが問いかける。
「うん…」
色っぽい話しではない。
一度、アンジェリークは疲労のあまり、湯船に浸かったままで
居眠りをして溺れかけた。すぐにアリオスが気がつき、事無きを
得たが。
翌朝、事の次第を聞き、どうしたものかと考え込んだレイチェ
ルに、
「あいつのことは俺がついているからいい。それよりも心配なの
はお前だ、レイチェル」
と、アリオスは言った。
「お前だって同じ状況だろ?」
金と緑の色違いの瞳に見つめられて、レイチェルは内心どきっ
とした。
やっぱりレイチェルも一度溺れかけ、それ以来湯船には入らず
シャワーで済ましている。故に疲れが身体に澱んでいる。
小さく口をとがらせ俯いたレイチェルに
「お前の風呂まで俺が見張る訳にはいかねぇしな。だからアル
フォンシアに頼んでおいた」
「ええ!?」
この殺気立った聖地の中で、一人ご機嫌のアルフォンシア。
「あいつもここの人間…じゃねぇが、一員だろ? それぐらいや
らせろ。お前もあいつなら気にならねぇだろ?」
その夜から、レイチェルが浴室へと入ると、どこからともなく
アルフォンシア(少年型)が現れて、それなりに楽しいお風呂と
なった。
こうしてアンジェリークとレイチェルの睡眠とお風呂タイムは
確保された。
――でも、それだけじゃないわね…。
ベットのシーツが、毎日取り替えられていたことに気付いたの
はいつだったか。レイチェルの身の回りの世話をしてくれる女官
に、一言言ってくれたのはおそらくアリオス。この場合、照れる
よりもありがたみの方が先である。
――やっぱりこれは感謝しなくっちゃねぇ〜〜。
などとレイチェルが考えたとき
「おい、お前たち。ナニしてんだ?」
扉の向こうにアリオスの姿。
気がつけば、アンジェリークとレイチェルは二人して執務室の
床に寝転んでいた。
「あはっ」
むっくりとレイチェルは起き上がる。
「やっと終わってね。気が抜けちゃったのよ」
「ほお〜。終わったのか。ごくろうだったな」
「うん。今日は、見送りはいいよ。それと…」
やっぱり『感謝の気持ち』は『表現』するべきである。
「それと、ね。明日はお休みにしよ」
「えっ!?」
未だ床にへたり込んでいるアンジェリークが、驚いたように目
を見張る。
「こんなに頑張ったんだもの。明日一日ぐらい休まなきゃ、ホン
トに身体壊してしまうよ」
「でも…」
「大丈夫だって。私も休むから、アンジェも、ね」
と、そこでアリオスにウインク一つ。
「それじゃ、お休み〜〜」
果たしてアンジェリークが休めるのかどうかは知らないけど、
取りあえずアリオスへは『感謝の気持ち』を贈ったレイチェル
だった。
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