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          「アリオス!」 
          
          冬も近い秋の終わり、すっかり暗くなって夜へと移る頃合い。 
          行き交う人の中から姿を認めて、嬉しそうに駆け寄ってくるアンジェリーク。 
         「…クッ。来やがったな」 
						 唇の端を上げて薄く笑うアリオスを、アンジェリークは駆けて来たせいで、少し上気した頬で見上げた。 
						
         「ごめんね、待った?」 
         「…いや。別に」 
          そう言ってアリオスは時計を振り仰ぐ。 
         「まだ、全然、7時前じゃねぇか」 
         「でも、待たせちゃ悪いと思って…」 
         「遅れてくるぐらいの方がいいって言っただろ」 
						 ククッと笑いながらも、アリオスは案の定、早めに来て正解だったと胸に呟く。 
						
           
         「お前、メシは?」 
         「食べてきたけど。あっ、アリオスが未だなら、付きあうわ」 
         「いや、俺も軽く済ませてきた。それに…」 
          大体、最高のごちそうが目の前にあるのだから。 
         「それに?」 
          と首を傾げるアンジェリークに、意味深な笑いだけを向けて 
         「それじゃ、その向こうに車を止めてるから、いくぜ?」 
          と手を差し出す。 
         「うん」 
          と、アンジェリークは素直に手を重ねた。 
           
          並んだ車を見渡し 
         「ね、アリオスの車ってあれ?」 
          とアンジェリークが声をかける。 
         「ああ、そうだ。よく分かったな」 
         「えへっ! なんとなく、ね」 
						 確信があったわけじゃないけど、その銀に輝く車がアリオスに似合うと思ったのだ。 
						
         「なかなかいい勘してるじゃねぇか」 
						 アリオスが言ってやると、アンジェリークは嬉しそうに、そうしてどこか得意げに笑顔を向けた。 
						
          ――……こいつ、状況分かってんのか? 
          一瞬、疑いの目を向けたアリオスだが、 
          ――ま、いいか…。 
          と思い直す。 
          今は取りあえずは、この少女の捕獲が先決だ。 
          ほら、と助手席を開けて促すと、アンジェリークは素直に車に乗り込んだ。 
						 自分も運転席側に乗り込んで、そこでアリオスは内心、会心の――獲物を捕らえた――笑みを浮かべて、アンジェリークを見やった。 
						 アンジェリークは俯いてシートベルトに手間取っている。その手にすっと手を重ねる。 
						
         「え?」 
						 顔を上げたアンジェリークを見つめ、身を乗り出し、その紅い唇に軽く口付けた。 
						
         「!」 
						 一瞬の出来事に驚き、大きな目をもっと見張るアンジェリークに笑みを深める。 
						
         「着替えてきたんだな」 
         「あ、うん…」 
						 オレンジ色のブラウスと濃紺のフレアスカート。やはり濃紺の少し厚手のジャケット。髪も頭の脇から編み込んで、小さな耳元に揺れる花のイヤリング。 
						
          彼女なりのおしゃれをしてきたのだろうと。 
         「似合うぜ」 
         「あ…ありがとう」 
          どぎまぎと視線を泳がせるアンジェリークに、今度は額に口づける。 
         「サンキュ。来てくれて嬉しいぜ」 
         「えっ、で、でも、約束したんだもの」 
         「けど、金だけ持って逃げるってことだって出来ただろ?」 
         「なっ! そ、そんなこと!」 
          ふるふると首を振るアンジェリークの頬を包んで 
						「ああ、分かってる。お前はそういうヤツじゃねぇな。こうやって律義にやって来るんだから」 
						
          そう言って、もう一度キスをすると 
         「それじゃ、行くぞ」 
          と、発進させた。 
           
          雑踏の中を車は静かに走りだす。 
          夜7時過ぎ。 
						 ネオンと信号と先行く車のテールランプがちらつき、いっそ昼より賑やかにも思える。 
						
          街中なので、何度も信号待ちをして、なかなか進まないけど、そのゆっくりしたドライブをアンジェリークは楽しんでいた。 
         「ね、どこ行くの?」 
          しばらく窓の外を見ていたアンジェリークが振り返って聞くと 
         「俺の家」 
          とアリオスは短く答えた。 
         「アリオスの家?」 
         「ああ、その方が落ち着くだろ?」 
         「あ、う…ん」 
          ぎこちなく頷く様子に、アリオスはすいっと身を乗り出すと小花が揺れる耳朶に 
         「それともラブホテルとかの方がいいか?」 
          と囁くついでにぺろっと一舐めする。 
         「なっ! そ、そ、そんなこと、ないっ!」 
 真っ赤になってぶんぶん頭を振る様が可笑しくて――可愛くて、クツクツ肩を震わせる。 
         「それより、アリオス! 運転! ちゃんと前見て〜」 
 未だ悪さをしかけるアリオスの舌に、くすぐったそうに身をすくめながら訴えるアンジェリークに 
         「ま、そっちは今度な」 
          と言って(今は)離れてやった。 
          つまり、今夜限りにするつもりなど毛頭ないアリオスだった。 
           
						 程なく車が滑り込んだ建物は、タイル張りのしっかりした造りのマンションだった。 
         「着いたぜ」 
						 扉を開けてくれたアリオスに頷き、降り立ったアンジェリークは、辺りを見回し、その並ぶ車の立派さに目を見張った。 
          ――なんか、凄い感じ…。 
						 扉のセキュリティを解除したアリオスの後ろにくっついて、小奇麗なロビーを抜ける。 
						
          ――アリオスってどういう人なんだろ…。 
						 なんだかあれよあれよと言う間にこうなってしまって、でも不思議にそれが嫌な感じがしない。 
						
          普段なら当然ある警戒心が、アリオスには沸かずに、むしろ安心している。 
         「ほら、乗れよ」 
          開いたエレベーターの扉を押さえて促される。 
						 アンジェリークに続いて乗り込み、ポンッと慣れた手つきで最上階のパネルを押す。その指先が綺麗だな…とぼんやり思った。 
						
          だけど。 
          ふと、この狭い箱の中でアリオスと二人きりだと実感する。 
						 上昇する浮遊感のせいか、それとも他のせいか、なぜか胸がどきどきしてくる。 
						
          と。 
         「なんか、寒そうだな」 
          上から振ってくる声。 
         「え?」 
						 そんなことないよ、と言おうとしたが、次の瞬間、アンジェリークの目の前は黒くなった。 
						
         「あれ?」 
          何があったかと見上げた先には、小さく微笑んだアリオスの顔。 
          包まれる彼の温もりと香り。 
          彼のコートの中に包まれているのだとようやく分かって、 
         「えへ…。ありがとう、アリオス」 
						 嬉しくなって、そのままアリオスの胸に顔を埋めると、降りてきた腕が優しく包んでくれた。 
						
          どういう人かは分からないけど、優しい人だと思った。  
           
           
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