「よお、待たせたな」
ぽんっと肩を叩かれ、驚いて振り返る。
そこにはすらりと長身の銀の髪をした、『見知らぬ』男が立っていた。
「えっと…」
何方ですか? とアンジェリークが問い掛ける前に、男は掛けていたサングラスを片手で取り、ニッと笑いかけた。
「…!」
息を飲むほど端正な容貌――細面に通った鼻筋。薄い唇。切れ長な目。
だけど、なにより引きつけられたのは、輝く銀の髪の向こうに見え隠れする、金と緑の瞳だった。
その不思議な輝きに目が吸い寄せられて、言葉を失う。
男はそんなアンジェリークに頓着せず、
「待たせて悪かったな。ほら、行くぜ?」
と、手を伸ばしてアンジェリークの肩を抱き、歩きだした。
「えっ! あ、あのっ!!」
思わずたたらを踏んで、焦るアンジェリークに
「ん、なんだ?」
男は体を屈めて顔を覗き込んだ。
こんな至近距離で、こんな整った男性の顔のアップに、息を呑む。
「ほら、とろとろすんな。行くぜ?」
男が促す言葉に、結局アンジェリークはただ頷くしか出来ない。
体で包み込むかのように抱き込まれて、そのまま男が歩くので、何が何だかよく分からないまま、釣られてアンジェリークも歩きだした。
大通りに出たところで
「ここまで来ればいいだろう」
男はするっと腕を解くと、くるり、正面に立った。
「お前なぁ、一体、どういうつもりだ?」
「えっ…」
「そんな格好であんな所をうろつくなんて、どういうつもりだって聞いてんだ」
男は憮然とした声色で眉を潜め、あの金と緑の瞳でひたと見つめる。
アンジェリークは少し恐くなって、俯いた。
さっき、この少女をあの裏通りで見かけ、アリオスは目を疑った。
きっちり着こんでいる制服は、アリオスさえ知っている名門のスルモニィのもの。
さらりとした栗色の髪に化粧気のない――だからこそ少女の若さが際立つ――肌。
例え昼間でも、こんな少女がうろつくには場違いの裏通りなのに、少女は立ち止まってあちこち見回していた。
あの場にいた男達の視線は釘付けになり、そうして我先に声をかけようとした寸前、アリオスが先手を打ったわけだった。
黙って俯いてしまった少女に少し苛つく。
「あのなぁ。昼間だからよかったものの、夜には絶対にあそこには迷い込むなよ」
おそらくは何かの拍子に迷い込んだのだろう、と見当つけて言ったが、少女は顔を上げて首を傾げた。
「どうしてですか?」
向けられた深い青緑の瞳を見た途端に、心の奥底に鳴り続けていた不愉快な苛立たしさがビンッと音を立てた。
「どうしてだって?」
アリオスは低く言うと、ずいっと身を乗り出し、そのまま壁と自分の体の間に少女を閉じ込めた。
「あ! あの!!」
この至近距離にこの体勢。アンジェリークの鼓動は一気に跳ね上がる。
覗き込んだ男の厳しい顔に怖さを覚えつつ、その金と緑の不思議な瞳に目が吸い寄せられ、つい見惚れる。
「夜にうろついてみろ。あっという間にこういう目に合うぞ」
吐息が届きそうなくらいの距離で、わざと耳元で低く言ってやる。
この少女なら、それで真っ赤になっておたおたすると踏んだのだ。
だが。
「本当にそう思いますか?」
「あ?」
「本当に、夜にここにくれば、私でも声かけて貰えるでしょうか?」
「……………」
少女の言いようは真剣で、どこか必死の気配もあって、少し面食らって、腕の囲いを解いた。
「お前、言ってる意味、分かってるのか?」
真っ直ぐに見つめられ、少女は僅かに狼狽え、すうっと視線を外した。
「仕方ないんです…」
微かに切なげな声色。
だがそれも一瞬で、くるっと向き直ると、
「さっきは助けて下さったんですね。ありがとうございます。嬉しいです」
と言って、ふわっと微笑んだ。
その微笑みが。
本当に優しくて綺麗で。
そうして、決して誰にも渡したくない微笑みだった。
ポーン・・・。
広場に3時を告げる音。
「あっ、行かなくちゃ…」
少女は首を回して時計を見上げて呟く。
「本当にありがとうございました。それじゃ、失礼します」
栗色の頭を下げて去っていこうとする少女の腕を、アリオスは取った。
「待てよ」
「はい?」
「お前、今夜辺りここに来て、身体売るつもりなんだな?」
「えっ!?」
あまりにあからさまな言い様に、さすがに赤くなって狼狽えたが、それでも少女はこくんと頷いた。
「…買ってくれる人がいるなら……」
「そうか、それじゃ…」
アリオスはすいっと紙幣の束を少女に差し出す。
「それじゃ、お前の今夜は俺が買う」
「ええっ!?」
予想外の成り行きに、アンジェリークはポカンと目と口を開けて、
立ち尽くしてしまった。
「クッ…。なんて顔、してんだよ」
男は可笑しそうに咽で笑う。
――あ…。
整いすぎるほど端正な顔が、笑うと人懐っこく、愛嬌が零れて。
その笑顔に、ドキンッと胸は高鳴る。
「ほらよ」
と、手におしつけられた紙幣の束に我に返り、そうしてその厚みに驚ろき我に返る。
「あのっ!」
頂けません! と言おうとして、アンジェリークは咽を詰まらせた。
いっぱい考えた。
考えて、考えて、考えて。
そうしてこの結論を出した。
出した筈だった――――。
黙り込んでしまった少女の手に紙幣を押し付ける。
はっと顔を上げた少女に、アリオスは
「今はあんまり手持ちがねぇんだ。それで手付けにしろ」
とニヤリと笑った。
「えっと…あの…」
困った顔をして何か言おうとする少女をさえぎり
「お前、これから何処か行く予定だったんだろ?」
と通りの向こうの時計を目で指さす。
「あっ!」
時計を見た途端に慌てて、そわそわし始めた。
くるくる変わるその表情。
アリオスはもう一度クッ…と笑うと
「それじゃ、今夜7時に、ここで待ち合わせだ。いいか?」
と覗き込む。
『7時』というところに、アリオスの計算があったりするのだが。
「う…うん…」
ようやく頷いた少女に
「よし。イイコだ」
と目を細め、ようやく捕らえたままの腕を放した。
「そういや名前聞いてなかったな。俺はアリオス。お前は?」
「あっ、アンジェリーク、です」
「アンジェリーク? 確か『天使』って意味だったよな。いい名だな」
お世辞や手管ではなくて、少女に似合いの名だと思ったのだ。
「うふっ、ありがとうございます」
照れながらも微笑む少女は、まさしく『天使』だ。
「えっと…アリオスさん」
「アリオス、でいい」
「え?」
「ついでに敬語も止めてくれ。堅苦しいのは苦手なんだ」
『アリオス』と名乗った彼は手を振って笑った。
随分年上に見える男の人に、呼び捨てにするのは戸惑われるのだけど、その顔を見るとその方が自然な気もして、
「それじゃ、アリオス」
「なんだ?」
「えっと…色々ありがとう。7時にここで待ってるから、絶対に来てね」
「……クッ。アハハッ!!」
とうとうアリオスは吹き出す。
「了解。まあ、お前はのんびり来いよ。遅れて来るぐらいの方がいいぞ」
「?」
首を傾げるアンジェリークにフッと笑いかけ
「それじゃ、気をつけて行ってこいよ。転んだり迷ったりするなよ」
と、アンジェリークの頭をポンポンと撫でた。
アンジェリークはその扱いにちょっと口を尖らせかけたが
「それじゃ、今夜ね」
と、一、二歩駆け出し、くるっと振り返ってぺこんと頭を下げると、街の雑踏の中へと去っていった。
「…クッ。面白いヤツ」
その後ろ姿を見送りながら、可笑しそうに呟き目を細めたアリオスだった。
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