「おはよう! 葉月くん!!」
それはそれは明るい愛の声。
振り返ると満面の笑顔。何かいいことあったのか? と思ってし
まう程の。
「…おはよ」
愛の声と笑顔につられて挨拶を返し、ふと、愛が抱え込むように
手にしているラケットに気が付いた。
「ね、ね? あの後どうなったの?」
「…おまえ、テニス部入ったのか?」
愛の質問には答えず、葉月は自分の疑問を尋ねる。
「あ、うん。そうだよ」
「得意なのか? テニス」
「ううん。テニスするのは初めてだよ」
「…………」
経験もないのにテニス部に入ってしまう愛の度胸に、心の中で目
を見張って。
でも、
「中学の時は出来なかったからね。でもいいな〜って思ってて。
せっかく高校に入ったんだもん。思いきってやってみよ〜かな〜っ
て、ねっ」
大きな瞳をくるっと動かして見上げる、その屈託のない笑みに、
葉月も釣られて微かに笑んだ。
ピンポーン――。
予鈴の音に愛はスピーカーを見上げたかと思うと、
「わっ!! わたし、今日、日直だった。それじゃね、葉月くん!」
手を振り、バタバタ駆けて行った。
「ヘンなヤツ…」
葉月は呟いたが、その口元には微かな笑みが残ったままだった。
『二つ隣のクラス』というのも、案外いいものかもしれない、と
思ったのは昼休みの時。
いつものように、体育館の裏手で昼寝から戻って来たところで、
葉月は自分の教室の前でうろうろしている愛に出くわした。
「あっ、葉月くん!」
ぱっと眩しい笑顔を向けられ、ドキッと高鳴る内心を押し隠して、
葉月は努めて平静に
「どうかしたか?」
と尋ねた。
「うん。これ、返しに来たんだけど、なっちゃん、いなくって…」
と差し出されたのは数学の教科書。
「四時限目が数学だったんだけど、教科書忘れちゃって。そうしたら、
なっちゃんが『うちは朝一からだったんだよ〜〜』って貸してくれたの」
「…なるほど」
数学は二クラスを『優秀組』と『ふつーの子組』に分けなおして
授業を受ける。つまり葉月のB組はA組と、愛のD組はC組と一緒
の時間帯に数学があるわけだ。逆に言えば、B組とD組は同じ時間
に数学は無いということになるので、教科書を忘れたのなら、二つ
隣のクラスに借りに来たのだろう。
「…しかし、おまえ、自分の担任の科目の教科書忘れたのか?」
「うっ…そ、それは…今朝、予習の確認してて、ついつい忘れ
ちゃったのよ」
「ふうん…。ちゃんと予習してるんだな。あ、確かおまえの『片思い
の相手』だったもんな。当然か」
「も、もう。葉月君ったらっ!」
愛はメッと小さく睨むと、次の瞬間笑顔になって
「きっと両思いになるわよ! …そのうち」
と言って胸を張った。
『そのうち』という言い方が可笑しくて、葉月はくすっと笑った。
「でも、困ったな…。 わたし、次、体育だし、当番だから、早め
に行かなきゃ駄目なんだ。なっちゃん、まだ、戻って来ないし…」
黒板の上にある時計を気にして、愛がきょろきょろ辺りを見回す。
「なっちゃんって誰だ?」
「え、あ、藤井さんよ。藤井奈津実さん」
「………」
葉月の沈黙をどう取ったのか、
「えっと背はこれくらいで、髪をこんな風に結んでて、目がおっき
くって、元気がよくって…」
と、頭の横で手をひらひらさせたり、髪を結んだり、目を見開い
たりと忙しい愛。
「…そうか…分かる。多分。俺、返してやろうか?」
「えっ!?」
「俺のクラスだろ、そいつ」
「うん、そうだけど…。でも…」
どうしよう、と躊躇した愛だったが、流石に迫る時間には勝てず、
「ごめんね、葉月くん。ありがとう。お願いします」
と言って差しだした。
「ああ…」
「なっちゃんに『ありがとう』って伝えて?」
「分かった…」
頷く葉月に愛は嬉しそうに笑うと、パタパタと朝のように走って
いった。
「藤井……」
声をかけると、その女生徒は驚き目を見張って立ち尽くした。
取りあえずその態度には気が付かない振りをして、
「これ、預かった」
と教科書を差し出す。
「あ、愛が返しに来たんだ。愛ったら…何時でもよかったのに」
納得して頷く彼女の手に、教科書を乗せる。
「ありがとう…」
「え?」
「って言っていた」
「あっ、愛が、か…」
「そう…。じゃ…」
そう言ってきびすを返して自分の席に戻った。
葉月はその女生徒を知っていた。
名前は知らなかったけど、以前、「雑誌見たよ!」と言ってくれ
たヤツだった。
成り行きでやり始めたモデルだが、毛色の変わった姿形を見せ物
にしてるようで、あまり好きになれなかった。
だけど、そんな風に言われると何処かこそばゆい、照れくさい気
持ちも確かにあって、そんな自分自身に戸惑って。
そんな気持ちがないまぜになって、上手く言えなくて、結局、
「……だから?」と言ってしまったのだ。
彼女の傷ついた顔に「しまった」とは思ったが、それを言い表わ
す言葉を持ってなくて。結局はその場から立ち去るしか出来なかった。
今更だけど、おそらくは分かってもらえてないだろうけど、言い
たかった言葉の片方、『ありがとう』を言葉に出来て、葉月はほっ
としていた。
――ありがとう…な、愛。
意図しなくても、これは愛が与えてくれた機会だ。
――ホント、変なヤツだな、おまえって……。
心の中で呟いて、窓から校庭を眺める。
遠くからでもすぐ分かる。
両手にボールの入ったカゴを下げて、ヨタヨタと歩いている。
――当番だって言ってたもんな…。
この一時間、校庭にいる愛を眺められる。
いつもは寝てしまう午後の授業も、楽しく過ごせそうだ、と葉月
は思った。
「あっ、葉月くーん」
下駄箱で愛の声に呼ばれた。
で、振り返ると、愛が教室の方からブンブン手を振りながらやっ
てきた。
「探してたんだ。ありがとね〜〜」
「なにが?」
一体何に礼を言われているのか分からず首を傾げる。
「なっちゃんに本返してくれて、ありがとう」
愛にとって『ありがとう』はこんなに容易い言葉らしい。そうし
て言われる方は
「別に…礼を言われる程のことじゃない」
などと言ってしまうが、本音は嬉しい。――嬉しい、と思った。
何気なく並んで校舎を出る。葉月は帰るために。愛はこれから
クラブだから。
「あ、葉月くん。ゴールデンウイーク、予定とか入ってる?」
「いや。別に、特には」
「それじゃ、一緒に何処か行かない?」
少し照れたような表情のままに、覗き込まれた。
「…別にいいけど」
と答えつつ葉月は、少し複雑だった。
――先手、打たれてしまった……。
やっと出会えた『姫』の愛。愛は覚えてなかったけれど。
でも、やっぱり愛に魅かれてしまう。
だから、自分から愛を誘おうと思ってたのに…。
「…何処、行きたいんだ?」
「んっと〜、第一希望は森林公園かなぁ。臨海公園も行ってみたい
けど」
「ふーん。おまえ、そういう所に行きたいのか?」
そう答えつつ、ちょっとほっとした。
カラオケとかゲームセンターとか言われてしまうと、愛を楽しま
せる自信がなかったので。
「んっとね、わたし、ずっと前に、ここに住んでいたんだけどね」
「ああ、そうだな。………そんなこと言っていたな」
葉月の小さな沈黙には、愛は気付かない。
「本当に小さな頃だったし、殆ど覚えてないんだけど、やっぱり、
懐かしい感じがすることもあって。だから街のあちこち見て回りた
いなって思ったんだ」
「なるほどな、分かった。…それじゃ、森林公園にするか? あそ
こなら、雨降っても植物園があった筈だし」
「うん! えへへ、ありがとうっ」
愛はそれは嬉しそうな笑顔を向けると、ふと首を傾げた。
「そう言えば、葉月くんは、ずっと、はばたき市に住んでるの?」
「………一度、数年、離れたけどな…子供の頃」
「それじゃ、一度引っ越してまた戻って来たってこと?」
「ああ…」
そっと愛を伺う。
だけど。
「あれ〜、それじゃ、わたしと同じだね!」
愛は目一杯の笑顔を向けてくれたけど。
「あっ、時間だっ。それじゃ、また明日〜。気を付けて帰ってね」
と言って、運動部部室舎へと走っていった。
残された葉月は、その後ろ姿を見送って、ふうっと深い溜息をつ
いた。
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